「………」

翌朝。
蓮が起床して広間へ行くと、昨夜のことが夢ではなかったという証拠がそこにあった。
すなわち、少女が。
昨夜のまま、ソファで眠っていた。

蓮は渋い顔でくしゃくしゃと自分の頭を掻く。
そして向かい側のソファに座ると、少女の寝顔を見つめた。

こうして明るい太陽光の下で見ると、ますます少女の顔が幼く見える。
一体彼女は何者なのだろう。
シャーマンファイトを知っているようだが、自身はシャーマンではないと言う。
確かにそれらしい武器や持ち霊の姿、そしてファイトの選手の証である、あのオラクルベルの姿も見えない。

(………わけがわからん)

寝ている間に、これが何度も夢だったらいいのにと思った。
そんな女々しい自分を微かに嫌悪しながらも、ドアを開けた瞬間落胆したのは嘘ではなかった。

『おはようございます、ぼっちゃま』
「…ああ」

持ち霊の挨拶に適当に返し、蓮は立ち上がった。
このまま此処で考え込んでいても埒が明かない。時間の無駄だ。
それならば、一次予選最終試合に向けてトレーニングを始めた方が、まだましというもの。
麻倉葉と同じく、自分にとってもその試合は、最後のチャンスなのだから。
勿論、本当に最後にするつもりは毛頭ない。勝って本戦へ進むのは、自分だ。

「行くぞ、馬孫」
『…は』

持ち霊に声をかけると、蓮はトレーニングルームへ向かった。
























ふっと意識が夢の淵から浮上した。

「………」

はぱちぱちと瞬くと、ゆっくりと起き上がり、しばし周囲を見回す。
誰もいない。
昨夜の、あの少年も。

ソファから立ち上がって、一歩踏み出すと、身に纏った布がふわりと揺れた。
幸い足首ほどの長さしかないから、裾を踏んで転んでしまうということはなかったけれど。

は、人の気配がする方へ向かって部屋を出て行った。





ギー…ガシャンッ…

『……坊ちゃま?』

不意に廊下に人の気配を感じて、蓮はトレーニングをする腕を止めた。
訝しがる馬孫を通り過ぎ、つかつかと扉に近付くと、バッと開ける。

「………ぁ」
「…起きたのか」

そこにいたのは、昨夜のあのという少女。

「………」

蓮は、その扉を開けたことに少し後悔した。
は昨夜のまま、あの布を一枚羽織っただけの姿だったから。
少々目のやり場に、困ってしまった。

「……少し、そこにいろ」

それだけ告げると、返事も待たずに自分の部屋へ向かう。
本当ならば自分の服を他人の、それも見知らぬ少女に貸すことに抵抗がある。
だがそれ以外にどうしようもない。姉の服を無断で貸すのも気が引けた。
それに少女を見ていたら、そうも言っていられない。

クローゼットの中から数枚適当に選び、戻ってくるや否や少女に押し付ける。

「これを着ろ。いつまでもそんな格好をされていては、こっちが困る」

些か強引に服を渡されたは、しばし戸惑うように黙っていたが、やがてこくりと頷いた。
それを見届けると、さっさと蓮はトレーニングルームの中へ戻る。
余計な時間を食ってしまった。

(何故俺が、あんな女の世話を焼かねばならん…)

まったくもって理不尽だった。腹立たしいことこの上ない。








「………蓮」

着替えたが顔を出したのは、蓮がトレーニングを終え、一息ついている時だった。
空の牛乳瓶を手に振り向くと、さっきよりかは幾分見れるようになったの姿があった。
とはいえ、彼女は自分よりも小柄なのだ。体躯に合わぬ服のせいで、華奢さが更に目立っている。
だがそれでも、目のやり場に困らなくなっただけましというところか。

「―――その服はやる。気が済んだらさっさと出て行け」

倒れているところを家に連れて帰り、服まで与えてやったのだ。
もうそれ以上何をしてやる義理もないと思われた。
ここまでやればもう充分だろう。
自分でも、よく気が持ったほうだと言える。大した気まぐれだ。珍しいにもほどがある。

「…………」

だがは動かなかった。
ぴくりとも動かないで、じっと蓮を見つめた。
その唇が、ぽつりと紡ぐ。

「蓮」
「……何だ」
「もうすぐ、すべてがかわる」

ふっと唐突に無感情になった声に、思わず蓮は呆気にとられて、少女に見入った。

「星が、めぐる。さだめも、めぐってゆく。
 ―――もうすぐすべてがかわる。歯車がまわり、進むべき道が分かたれる。すべては、己が意思で選び取れ」
「……何を、言っている」
「カミサマは、時の流れを汲み取ることができる。そうして、夢で私に教えてくれる」
「………」
「今のはぜんぶ、蓮の未来」
「すべてが、変わると?」

がこくりと頷く。その表情は、相変わらずの無表情。昨夜垣間見せた笑顔が嘘のような。
―――不意に、その無表情さが酷く癪に障った。
意味もなく、激しい苛立ちが込み上げた。

「当然だ」

低く押し殺したような声が、蓮の薄い唇から漏れた。
まるで獣の唸り声だった。

「俺はシャーマンキングとなり、この世のすべてのしがらみを破壊するのだ」

苛立ちのままに、少女の華奢な肩をぐっと掴んだ。
指が肩に食い込んだが、彼女は眉ひとつ動かさず、蓮を見つめていた。
それがまた、癇に障った。

「すべてが変わる? その通りだ。俺が全てを破壊してやるのだから」

の真っ黒な双眸を、音がするほど睨み返す。

「……貴様に、何がわかる」

ぎりぎりと指先に力がこもる。
このままでは、彼女の肩を破壊してしまうかもしれない。
それでも、怒りは収まらなかった。

「道家の歴史の、何がわかる。その犠牲の、何が」

背中に痛みを感じた。否、実際に痛みを感じたわけではない。
その背に刻まれているのは、永遠に消えない印。植え込まれた憎しみの象徴。全てをがんじがらめに束縛する鎖。
どくり、と心臓が波打つ。

「――――蓮は」

が、口を開いた。

「蓮はなぜ、シャーマンキングになるの」

蓮は嗤った。

「は。さっきも言ったろう。この世のすべてのしがらみを、破壊するためだ」

その笑みはまるで。
己を嘲っているかのような、嗤いで。

の顔が、その時初めて歪んだ。
今にも泣きそうな顔だった。
小さな声で、呟く。
視線は真っ直ぐに、蓮へ。

「こんなに、きれい、なの に」

蓮の動きが、一瞬止まった。
を凝視したまま、立ち尽くす。

だが次の瞬間、その掴んでいた肩を乱暴に突き飛ばすと、

「知った風な口を聞くな! 貴様に何がわかる! 貴様が何を知っていると言うのだ!」

壁にぶつかったが、よろりと立ち上がる。
打ったのか、肘が赤くなっていた。

「………」
「さっさと失せろ! さもなければ殺してやる!」
「………」
「失せろ!」

はしばし蓮を見つめていたが、やがてふらふらと外へ出て行った。
それを見届け、残った蓮は苛々と壁を蹴り飛ばした。肩で息をする。
やり場のない怒りが荒れ狂って、頭の中が真っ白になりそうだった。

それでも何とかなけなしの自制心で、その熱くなった感情を冷却する。
そしてソファにどさりと倒れこんだ。

「…………くそっ」

ぐったりとなりながら、蓮は吐き捨てるように毒づいた。
自分でも、最早何に対して毒づいているのか良くわからなかった。
























「――――」

それからどれくらい経っただろうか。
既に日は傾き、開け放した窓からは橙色の光と、涼しげな風が滑り込んできていた。

ぼうっと天井を見上げる蓮。

いつの間にか眠り込んでしまったらしい。
ここ数日、トレーニングが主で余り睡眠をとっていなかった。
眠ったことで、大分頭がすっきりしたような気がした。
そして思い出すのは、眠りに落ちる直前の、できごと。

少女の、今にも泣き出しそうな瞳がちらついた。

蓮は黙って首を振った。
なにを、思い出しているのか。女々しいことこの上ない。
これから試合を控えているというのに。

だいたい、自分でも厄介ごとだとあれだけ思っていた。
今朝目が覚めて、彼女を見て、一番に思ったことは夢ではなかったことへの落胆だったのだ。
そう、確かに彼女は面倒だった。
余計なことを、言ってくれた。
おかげであんなふうに激昂してしまった。余計な体力を使ってしまった。




――――自分で、追い出した、筈なのに。




気が付いたら、彼女の顔を思い出してしまう。

今まで見たことがなかった。
あんなにまで、純粋で単純な泣き顔を。
まるで子供のように幼く、何ものにも汚れていない瞳を。

今まで見てきたのは、すべて、憎しみと恐怖の瞳だった から。

彼女は自分のことを「きれい」だと言った。さっきと、昨夜とを合わせて二度。
何を言っているのだろう。
彼女の瞳の方が、余程、きれいではないか。

「………」

蓮は唇をかみ締めた。
さっきとはまた違う苛立ちを、感じた。
自分は何を思っているのだろう。
何て似合わないことを。
足りない睡眠を摂った筈なのに、頭がおかしい。

そんな不可解な己への、苛立ち。


そして彼女の見せた泣き顔に、一瞬でも見とれてしまった自分が、酷く恥ずかしかった。




蓮は、思う。
あのように純粋な心を持つ人間は、自分と関わるべきではない、と。
また自分も、あのように次元の違う人間と関わるべきではないと。
否、もともと関わることなどなかったのだ。
ただあの時、偶然道端で倒れている彼女を連れてきただけで。
ただ、それだけのこと、で。

そして今、やっとこの部屋から、この建物から、自分の視界から彼女は消えた。
薄っぺらな関わりは、その時点で完全に消滅した。
もうこの先、道が交わることもないだろう。
会うことは、決して。



蓮は黙って起き上がると、ゆっくりと窓辺に近寄った。
そして、そろそろ窓を閉めようかと手を伸ばした、その時。



不意に、歌声が聞こえた。



蓮の指が、ぴくりと止まる。

それはひどく耳慣れない旋律だった。
そして、耳慣れない言語だった。
どこか異国の言葉だろうか。
だがそれは、いくつかの他国語を学んだ蓮でも聞いたことのない発音だった。

「…?」

眉を顰め、耳を済ませると。
その歌が上の方から聞こえることに気付く。
吸い寄せられるように、蓮は屋上へ向かった。
























夕焼けが、血のように赤いことを、は知った。
うまれて初めて見る夕焼けだった。

自分が『うまれた』のは、つい昨日だったから。

「………きれい」

ぽつりと呟く。
鮮やかな紅色。町が紅の海に沈んでいく。
―――だけど、と。心が言った。

あの少年の金瞳の方が、余程きれいだったと。

だがその少年も、もういない。というより、自分の方が追い出されてしまった。
何故かはわからないが、彼を怒らせるようなことを、彼の逆鱗に触れるようなことを、自分は言ってしまったらしい。
後悔はしていない。
だって、本当のことだったから。
本当に、感じたことだったから。

すべてほんとうだった から。

だがすこしだけ、ほんのすこしだけ、残念だった。
あのきれいな、太陽のような色にもう会えないと思うと。

夕焼けは、美しいと思う。
まるで命の最期の輝きのように、どこまでも真っ赤で強烈な光。
けれど。
そのまま、空に浮かんでいる太陽の光も、きれいだと思う。
まるでそれはきらきらと命そのものの輝きのようで。
金色の光。


そう考えてから、あれ、とふと疑問に思った。


何故、昨日『うまれた』ばかりの自分が、命の最期の輝きのよう、とか、命そのものの輝きのよう、等と言えるのだろう。
そんなもの知らないし、第一そんなことが言えるほど生きてはいないはずなのに。

「………」

は首をひねった。
ふと、肘のじんじんと熱い痛みに、今更ながらに気付く。

それは、さっき壁に叩きつけられた時に、打ち付けてしまったもので。
その時はただ赤かっただけだったのが、相当強く打ったのか今では赤い上に腫れてしまっていた。

傷にそっと手をやる。
じり、と痛みが疼いて、は微かに顔をしかめた。













不意に、背中に声がかかった。
呼ばれて振り返ると。
そこには、先ほど自分が怒らせてしまった少年が、いた。






「蓮」






も、思わず口を突いて出た、というように彼の名を呼んだ。
蓮が気まずそうに目をそらす。

「………歌が、聞こえた、から」
「うた……?」

そういえば自分は、何か口ずさんでいたような気がする。
全く無意識の行動だったが。

だが何を歌っていたのだろう?
昨日『うまれた』ばかりの自分が、何を歌えたというのだろう? 歌など知らないのに。

さっきの太陽の光のことといい、内心酷く不思議なだったが、表には出さなかった。

蓮が数歩だけ、に近付いた。
そして、その赤い腫れに気付く。
彼の顔が、微かに歪んだ。

「……………痛むのか」

は嘘をついた。首を横に振った。
別に我慢できないほどの痛みではなかったから。

「………」

互いの距離を、沈黙が支配していた。

意を決したように、もう数歩蓮は進んで、座り込んでいるに近付いた。
そしてと同じ目線の位置になるように、しゃがみ込む。
彼女の赤い腫れが、白い肌に痛々しかった。

「………」

蓮は黙ってその腕に触れた。
ぴく、とが反応する。少しだけ痛そうに、眉をしかめる。

蓮はふっと微笑った。
先ほどとは打って変わった、嘲笑とは全く違う笑み。
少しだけ、泣きそうな。

「突き飛ばされても表情を変えない奴が、」

そのあとは、言葉にならなかった。

「―――蓮、怒ってない、の?」
「……ああ」
「そう…」

それだけ言うと、は、ようやく。
にこ、と笑った。
昨夜と同じ、あの。
あどけない笑顔。

「よかった」

それだけだった。
その一言だけを、酷く嬉しそうに、心の底から笑って、言った。

「―――行くところが無いのか」
「ない。わたしはうまれたばかりだから」
「………そうか」

彼女の言動や素性については、まだ全くの謎のままだ。
計り知れない。
気になるところが、幾つもある。
今は違っても、将来自分の敵か、妨げになるかもしれない。

だけど。

少しだけ、興味が湧いた。
目の前のこの幼い少女に。
自分は、この少女と関わってもいいのか。
―――今まで全てを破壊してきた自分は、世界の違う者と関われるのか。

勿論それまでの自分の素行に疑問などないし、これからもきっと続けていくだろう。
道家の呪縛から解放されない限り。
破壊は、とまらない。とめるつもりも、ない。
シャーマンキングになるのも、そのためだ。

だが、何故だろう。
彼女には殺意や破壊衝動が湧かない。
勿論先ほどは苛立ちで、結果的に彼女を傷つけてしまったわけだけど。
こうして改めて面と向かっていても、感情が波立たない。荒れない。

その理由を、知りたいとも、思った。





「?」
「来い」

それだけ言うと、蓮は立ち上がった。
そして、屋上の入り口に進んでいく。

しばらくその背をぼうっと眺めていただが、
ふと我に返ると急いで立ち上がって彼の後をついていった。